【新聞各社に掲載されました!!】第19回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い(再掲)
第19回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い
日時:令和5年8月11日(金・祝・山の日)13時開会
場所:場所:エルガーラホール7階(中ホール)
福岡市中央区天神1-4-2
講師:奥本康大 氏(「空の神兵」顕彰会会長)
演題:「パレンバン奇襲と大東亜戦争―日本の植民地化を阻止した陸軍落下傘部隊―」
参加費:1,000円(大学生以下無料)
主催:日本会議福岡
■「パレンバン奇襲作戦」は大東亜戦争の歴史を変える転換点
日本にとって、石油はまさに生命線であった。戦前、満洲や樺太で石油の採掘を試みたが、日本国内での消費を賄いきれるものではなかった。当時の石油輸入依存率は、現在とほぼ同じ九割以上であり、その大半をアメリカとオランダ領東インド(現在のインドネシア)からの輸入に頼っていた。また開戦直前の、日本の石油備蓄量は七百七十万トンで年間石油消費量五百万トンの一・五倍程度でしかでなく、戦争に突入すれば、一年程度で底をつくことがわかっていた。
そのため、日本は断腸の思いで開戦に踏み切ったのである。もし開戦に踏み切らなかったら、間違いなく欧米列強の植民地になったか、分割統治されただろう。「空の神兵」と呼ばれ、のちに軍歌・映画にもなった陸軍のパレンバン落下傘部隊は、開戦間もない昭和十七年二月十四日、当時の世界屈指の石油基地であったオランダ領東インドのパレンバン地区に奇襲攻撃をかけた。
記録によると、パレンバン地区を守備するオランダ軍および連合国軍の約千二百名に対し、陸軍落下傘部隊は約三百四十名、隊員の平均年齢は二十四歳! この若者たちが日本の命運を賭け、約三~四倍の敵の陣地の真ん中に、落下傘で降下するのだから、気力と気迫は並大抵では無かった筈である。にもかかわらず、パレンバン落下傘部隊は、たった一日で飛行場と二ヶ所の製油所を制圧するといった離れ業を成し遂げた。
(奥本康大先生著『空の神兵と呼ばれた男たち』より抜粋)